原民喜は、身近な人の死・多くの見知らぬ人の不条理な死を凝視し、耐えきれないほどの苦しさをバネに、死の意味を問う言葉(詩)を残しました。

民喜は、人とコミュケーションをとることができず、生き下手で、不器用で、お人好しで、優しい人間です。

民喜は、自身が普通の生活を生きることができないことを知っているのですが、どうしようもありません。妻・貞恵は、そんな民喜の最大の理解者であり、応援団であり、精神的な支柱であり、どうしようもなく愛しい女性だったのです。

貞恵と暮らした数年間は、民喜にとって貧しいながら幸せな生活でした。貞恵の力によるものでしょう、この時期に比較的多くの作品を残しています。

しかし、妻・貞江の死は、民喜には回復できない痛手であり、自身の生きる意味を失ってしまいます。

こんな言葉を書き残しています。



――もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために。


そんな気持ちを心に秘めて、妻の死後広島に疎開します。

1945年、民喜は広島で被爆します。

そのとき悲惨で不条理な多くの死に直面し、原爆による多くの死とその無念さを書き残すことを決意します。

民喜がもともと秘めていた透徹した感覚がますます鋭くなり、「夏の花」を描き上げます。納得できる自死への準備だったのかもしれません。


ここで紹介する詩は、民喜が、妻・貞恵の看病をしながら、病気・死を受け止めきれない心情が語られています。


 足のはうのシイツがたくれてゐるのが、蹠(あしうら)に厭な頼りない気持をつたへ、沼のどろべたを跣足(はだし)で歩いてゐるやうだとおまえはいふ。沼のあたたかい枯葉がしづかに煙むつて、しづかに睡(ね)むつてゆくすべはないのか。


 うつくしい、うつくしい墓の夢。それはかつて旅をしたとき何処かでみた景色であつたが、こんなに心をなごますのは、この世の眺めではないらしい。たとへば白い霧も嘆きではなく、しづかにふりそそぐ月の光も、まばらな木々を浮彫にして、青い石碑には薔薇の花。おまへの墓はどこにあるのか、立ち去りかねて眺めやれば、ここらあたりがすべて墓なのだ。


ながあめ

 ながあめのあけくれに、わたしはまだたしかあの家のなかで、おまへのことを考へてくらしてゐるらしい。おまへもわたしもうつうつと仄昏(ほのくら)い家のなかにとぢこめられたまま。


岐阜提灯

 秋の七草をあしらつた淡い模様に、蠟燭の灯はふるへながら呼吸(いき)づいてゐた。ふるへながら、とぼしくなつた焔(ほのお)は底の方に沈んで行つたが、今にも消えうせさうになりながら、またぽつと明るくなり、それからヂリヂリと雲つて行くのたっだ。‥‥‥はじめ岐阜提灯のあかりを悦んでゐた妻はだんだん憂鬱になつて行つた。灯が消えてしまふと、宵闇の中にぼんやりと白いものが残つた。


朝の歌

 雨戸をあけると、待ちかねてゐた箱のカナリヤが動きまはつた。縁側に朝の日がさし、それが露に濡れた青い葉つぱと小鳥の黄色い胸毛に透きとほり、箱の底に敷いてやる新聞紙も清潔だつた。さうして妻は清々しい朝の姿をうち眺めてゐた。

 いつからともなくカナリヤは死に絶えたし、妻は病んで細つて行つたが、それでも病室の雨戸をあけると、やはり朝の歌が縁側にきこえるやうであつた。それから、ある年、妻はこの世をみまかり、私は栖(す)みなれた家を畳んで漂泊の身となつた。けれども朝の目ざめに、たまさかは心を苦しめ、心を弾ます一つのイメージがまだすぐそこに残つてゐるやうに思えてならないのだつた。

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# by hitoshi-kobayashi | 2019-01-16 08:00 | Comments(0)

店名 かわず池

ジャンル 居酒屋、日本酒バー

住所 北海道札幌市中央区南5西2 オークラビル B1F

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若い飲み友達からお誘いを受けました。


―― 去年の暮れにオープンした面白い店に行きませんか?


勿論、OKです。いそいそと夜のススキノへ!


「かわず池(や)」は、飲み屋ビルの地下にあります。

入って、ビックリ。広い店内いっぱいに幅広のカウンターをテーブルのように使っています。

店に入ったときは客が少なかったのですが、徐々に増え、ほぼほぼ満員です。若い人が多いんです。

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美味しい日本酒があるらしいのですが、角ハイボールで攻めてみました。

酒飲みの気持ちをくすぐるような肴がそろっています。

順不同ですが、カジカの子、なめろう、たちポン、揚げ里芋、カツオ風味のポテサラ等々。

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そして、この店の名物「すし天」。

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握り鮨を薄いコロモでくるみ、揚げています。最初聞いたときは、引きそうになりました。昔、てんぷらにすればどんな食材でも食べることができると、言われた記憶がありますが・・・・

さて・・・・

私が頼んだのは、「白身魚の握り」、「山わさびの海苔巻き」です。

オソルオソル、トライ。


―― ムムッ・・・ これありだ! 意外に美味しい。


どんな人がこれを発想したのかな・・・・

私は思いつかない。

店の人たちは、にこやかでとても感じがよかったですよ。

また、イッテミヨウという気になりました。


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# by hitoshi-kobayashi | 2019-01-15 08:00 | Comments(0)

原民喜「小さな庭」より

1933年(昭和8年)、原民喜(1905年生)は、永井貞恵(1911年生)と見合い結婚します。おそらく民喜の実家が一人で生きる事の難しい彼の行く末を案じた結果の縁談だったのでしょう。

民喜は人とのコミュニケーションをとることができない性格でした。

貞江は民喜の才能を信じ、明るく彼をぐいぐい引っ張って高名な作家に民喜の作品を持ち込み、批評を仰ぐこともありました。民喜は直接作家と話すことができず、貞恵に向かって小さく囁き、貞恵が通訳のように民喜の言葉を作家に伝えたといわれています。

最愛の妻・貞恵との生活は民喜にとって最も幸せな時間だったのでしょう。

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1939年、貞恵が肺結核を発病(後に糖尿病を併発)。

1944年、貞恵死去。享年33歳。

貞恵を失った民喜の絶望は計り知れません。

1946年、三田文学6月号に発表された「小さな庭」の冒頭の4作品を紹介します。平易な言葉の一つ一つに民喜の悲しさ・絶望・貞恵への思いを感じます。



小さな庭  194445



 暗い雨のふきつのる、あれはてた庭であつた。わたしは妻が死んだのを知つておどろき泣いてゐた。泣きさけぶ声で目がさめると、妻はかたはらにねむつてゐた。

 ‥‥‥その夢から十日あまりして、ほんとうに妻は死んでしまつた。庭にふりつもるまつくらの雨がいまはもう夢ではないのだ。



そら

 おまへは雨戸を少しあけておいてくれというた。おまえは空が見たかつたのだ。うごけないからだゆゑ朝の訪れが待ちどほしかつたのだ。



閨(ねや)

 もうこの部屋にはないはずのお前の柩がふと仄暗い片隅にあるし、妖しい胸のときめきで目が覚めかけたが、あれは鼠のしわざ、たしか鼠のあばれた音だとうとうと思ふと、いつの間にやらおまえの柩もなくなつてゐて、ひんやりと閨の闇にかへつた。



 あかりを消せば褥(しとね)の襟にまつはりついている菊の花のかほり。昨夜も今夜もおなじ闇のなかの菊の花々。嘆きをこえ、夢をとだえ、ひたぶるにくいさがる菊の花のにほひ。わたしの身は闇のなかに置きわすれられて。


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# by hitoshi-kobayashi | 2019-01-14 08:00 | Comments(0)

店名 てれ屋

ジャンル 居酒屋、焼鳥

住所 北海道札幌市中央区南三条西5丁目 三条美松ビル 3F

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三条美松ビルは狸小路5丁目にある飲み屋さんビルです。

このビルのおでん屋さん「赤とんぼ」に何度か行きました。

今日はこっそり新規開拓です。相方が一泊の小旅行です。

インターネットで情報をとり、良さげな店を物色。「てれ屋」に決めました。

3Fの一番奥に「てれ屋」あります。7人掛けのカウンターと4人掛けのテーブルが二台あり、大将が一人で切り盛り。

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メニューです。

ビールと6品1,000円を注文。

肴がチマチマいっぱい出てくるのが楽しい。大将はこだわりが強く、いろいろ説明してくれたのですが、覚えきれません。でもどれも美味しい。


最初の肴:山形の枝豆とささ身のスモーク。

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左の写真:タコの頭を「白醤油+酒の煮きり」で食べます。標津の鮭のスモーク。鮭はスモークが強くなく、やや生っぽい感じですが、とても柔らかい食感です。

右の写真:鶏レバー

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左の写真:大根の拍子切りを味噌で食べます。口の中がサッパリします。

右の写真:中札内の南瓜、鹿肉、ショウガ。鹿肉は臭みがなく最高でした。

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「ローボール」が気になり、注文。

大将曰く。

―― 「ハイボール」に対抗して「ローボール」です。角サンより安いウイスキーを使います。でも、炭酸は自家製ですよ。

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お客がどんどん入ってきます。ほぼ満員。スーツにネクタイでサラリーマン風です。女性客はいません。

突然、大将から質問。

―― 映画「ボヘミアン・ラプソディー」観たかい?

―― 観たよ。良かったよ。

両隣の客は「クーンのファンだけど、まだなんだ。」と答えたので、大将から強い口調で「絶対観に行きなさいよ。」と言われています。

しばらく、クイーン談義が続きました。

突然、BGMが「ボヘミアン・ラプソディー」に変わりました。びっくりです。

大将のレコードです。

いやいや、居酒屋で聞く「ボヘミアン・ラプソディー」もいいもんです。


おまけに、こんなレコードを見せてくれました。

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大将は井上堯之バンドのファンだったのです。これもBGMで聞かせてくれました。


大将の最後の一押しは・・・・

―― この映画を観てほしい。絶対いいから。

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そうそう、いろいろ食べたけど、焼き鳥を食べていないんです。

いつか焼き鳥を食べに行きます。そしてレポートします。

肴は美味しい、話は面白い。楽しい時間でした。


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# by hitoshi-kobayashi | 2019-01-13 08:00 | Comments(0)

クラーク博士の像は意外にたくさんあるのです。いくつかを紹介します。

札幌羊ケ丘展望台

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さっそうと、かなた(未来?)を右手で指差している全身像です。超有名ですが、私はまだこの像に会っていないのです。会うこと、今年の目標です。

写真はインターネットからお借りしました。

制作者:坂坦道。1976年設置

坂 坦道(さか たんどう、1920年(大正9年)116 - 1998年(平成10年))

石川県珠洲郡内浦町恋路で生まれ。日本の彫刻家。本名 青嵐(せいらん)。北海道女子短期大学で長く教授を務めました。

大通公園3丁目の石川啄木像は、坂の作品です。

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北海道大学(北大)の構内南のロータリー近くにある、クラーク博士の胸像です。

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この像が一番有名かも知れません。札幌駅から徒歩10分で会えます。

この像は二代目です。初代は、田嶼碩朗の制作で1926年(大正15年)514日に建立。太平洋戦争中金属類回収令によって供出。田嶼が制作した石膏原型(2016年現在、札幌独立キリスト教会に保存されている)を使用し、加藤顕清の監修で再鋳造して、1948年(昭和23年)10月に建立。(ウキペディア引用)

田嶼碩朗(たじま せきろう、187874 - 1946330日)

日本の彫刻家。明治期から昭和時代初期にかけて活躍した。福井県出身。

田嶼は、1939年(昭和14年)、大通公園5丁目「聖恩碑」を制作しています。巨大な塔碑です。

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北大クラーク会館二階のクラーク像

制作:加藤顕清 制作年不明

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加藤顕清(かとう けんせい、18941219 - 19661111日)

岐阜県出身の彫刻家、洋画家。本名、加藤 鬼頭太。

勝手な想像ですが、加藤顕清は田嶼のクラーク像を再建したとき、自分のクラーク像を作りたかったのかな。

旭川7条通りに加藤顕清の作品がたくさんあります。

婦人像・着衣 設置場所:7条通7丁目

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札幌時計台の金ぴかクラーク博士像

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制作はオリジナルフィギュアなどを専門にしている造形BLOCK(札幌市北区)。制作費約200万円。


クラーク像を市に寄贈したのは、時計台を管理運営している指定管理者のMMSマンションマネジメントサービス。銅像は重くて床が抜ける恐れがあるので、比較的軽くて持ち運び可能なエポキシ樹脂製。

クラーク博士と並んで写真を撮ることができます。


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# by hitoshi-kobayashi | 2019-01-12 08:00 | Comments(0)