2018年 04月 17日
本の話 長井勝一著『「ガロ」編集長 私の漫画出版史』ちくま文庫 1987年

ススキノの観覧車のあるビルの二階に古本屋「まんだらけ札幌店」があります。
「まんだらけ」は漫画・コミックの品揃えが豊富で、私はここを覗きに行くのが楽しみの一つになっています。「まんだらけ」では既に配本がない貸本、月刊誌、週刊誌などもそろえています。
月刊誌「ガロ」のコーナーで初代編集長長井勝一の追悼号②を見つけました。
1996年4月の発行で、表紙は長井の笑っているポートレートです。買い求め読んでみますと、追悼号①は1996年3月に発行されているのです。追悼号①はAmazonで買いました。
長井は頬に手をあてて何かを考えている表情です。
月刊誌「ガロ」は、既に伝説化されているかもしれません。あの超有名な「カムイ伝」を長年連載していただけでなく、つげ義春の超衝撃的な「ねじ式」などの作品や、夭折した楠勝平が死と交換するかのように珠玉の作品を発表した雑誌です。
改めて、長井勝一は、(1921年生、1996年没)漫画雑誌「ガロ」の初代編集長です。
長井勝一著『「ガロ」編集長 私の漫画出版史』ちくま文庫 1987年

この本は、長井自身の生い立ち、「ガロ」を出版するまでの経緯、その後の漫画界の変遷、新人の発掘などを綴っています。
漫画を描く神様が手塚治虫ならば、編集の神様が長井勝一です。現代漫画の黎明期から漫画界を支え、日本の漫画の歴史(特に戦後の)を語るためには欠かせない人物です。
長井勝一略歴(ガロ、長井勝一追悼号より引用)
1921(大正10)年、宮城県塩釜市に生れる。
1939(昭和14)年、一攫千金を夢見て中国に渡る。
1941(昭和16)年、満州鉱山をやめ満州航空写真処に入社、関東分第二要員となる。
1945(昭和20)年、終戦前に帰国し東京と塩釜を往復しながら闇屋を始める。
1945(昭和20)年、終戦後、古本露天商を始める。闇市で漫画が売れる。
1947(昭和22)年、友人と特価本卸「大和書房」を開業。その後独立。特価本卸「足立文庫」開業。
1957(昭和32)年、白土三平と知り合う。
1959(昭和34)年、小出英男、夜久勉と三洋社を設立。12月「忍者武芸帖」を出版。
1962(昭和37)年、青林堂を設立。貸本向け単行本を発行
1964(昭和39)年、7月に月刊誌「ガロ」創刊。12月号(創刊4号)より白土三平「カムイ伝」連載開始。
1992(平成4)年、1月号から編集・発行人を退く。
1996(平成8)年1月5日、肺炎のため死去。
晩年の写真から受ける長井の印象は洒脱・軽妙な雰囲気を持っていますが、のめり込むことが多い情熱的な一面があると自ら言っています。一旗揚げようと中国に渡った人です。
帰国後、闇市で漫画が飛ぶように売れることに驚きます。戦時中、笑いや活字に飢えていた人たちの思いが伝わってきます。長井が漫画の世界にのめり込むきっかけです。
作家白土三平と編集者長井との運命的出合は、その後の漫画が日本の文化として成長する起爆剤となったのです。白土三平の「忍者武芸帖」(1959(昭和34年)~1962(昭和37)年三洋社発行)は貸本界のベストセラーであり、その作品の力は衝撃的でした。1967年には映画監督大島渚がアニメではなく、白土が描いた静止画をそのままクローズアップにして、セリフをつけ映画化しています。私はこの映画を観ました。
長井は白土の「カムイ伝」を連載するために「ガロ」発行しました。長井も白土も採算度外視です。
貸本は衰退し、月刊誌(少年、冒険王、少年画報など)にその座を譲ります。次いで、週間サンデー、マガジンなどの子ども向けの雑誌が出版され、月刊誌が衰退します。
そんな中、白土三平の「カムイ伝」の人気に支えられ、「ガロ」発行部数を伸ばしますが、売るだけ目的の大手出版社と違い、新人の発掘と作品の発表の場としての役割を長井は守ります。
「ガロ」は利益を求める商業雑誌ではありません。新人の登竜門的な役割を持っていました。
新人漫画家は自分の作品を長井に読んでもらって、「ガロ」に掲載されることを夢見て青林堂を訪れます。そして多くの新人が育ち、漫画の文化はますます拡大していきます。
長井勝一は、三度結核で倒れ入院するのですが、漫画への情熱は決して冷めることはありませんでした。
漫画の歴史を知るために読んで損のない一冊です。
漫画だけでなく、戦前・戦中・戦後の日本の興味あるエピソードが満載です。
欄間で有名なのは砺波ではなく井波なんですよ。
芸術品なので絵を飾ることと同じです。ただ、家(住宅)のあり方や価値観が変わってしまって、
井波彫刻は長い間苦戦を強いられています。
シェーン

