左川ちか全詩集より 「海の花嫁」

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海の花嫁


暗い樹海をうねうねになつてとほる風の音に目を覚ますのでございます。

曇つた空のむかふで

けふかへろ、けふかへろ、

と閑古鳥が啼くのでございます。

私はどこへ帰つて行つたらよいのでございませう。

昼のうしろにたどりつくためには、

すぐりといたどりの藪は深いのでございました。

林檎がうすれかけた記憶の中で

花盛りでございました。

そして見えない叫び声も。


防風林の湿つた径をかけぬけると、

すかんぽや野苺のある砂山にまゐるのでございます。

これらは宝石のやうに光つておいしうございます。

海は泡だつて、

レエスをひろげてゐるのでございませう。

短い列車は都会の方に向いてゐるのでございます。

悪い神様にうとまれながら

時間だけが波の穂にかさなりあひ、まばゆいのでございます。

そこから私は誰かの言葉を待ち、

現実へと押しあげる唄を聴くのでございます。

いまこそ人達はパラソルのやうに、

地上を蔽つてゐる樹木の饗宴の中へ入らうとしてゐるのでございませう。


昭和1061日、第一書房発行の《セルパン》第52号に発表



この作品は、左川ちかが亡くなる前年に発表されています。

文の語尾が「・・・でございます。」で終わる、左川ちかには珍しい文体で書かれています。左川ちかは、繰り返し「・・・でございます。」と言いながら、過去から今の自分の座標位置を探り確認し、それを誰かに、そして自分に話しかけているようです。

暗い海、すぐり・いたどりの藪、林檎、すかんぽ・野苺。防風林・・・・

生まれ育った故郷。北海道余市の風景がちかの脳裏に広がっているようです。

短い列車が向かう都会とは小樽でしょう。

作品のタイトルが「海の花嫁」ですが、ちかは「花嫁」になることはなかったのです。しかし「花嫁」になることを夢見たことがあったのでしょう。おそらく自分の体調が良くないこと、死期が近づいていることに気づいています。ちかは自分の短い人生を振り返っているのかもしれません。

この作品が発表された昭和10年のちかの様子を略年譜から引用します。


昭和10年(1935年)の左川ちか


左川ちか全詩集の年譜より引用

2月、滝野川区滝野川町1986番地の保坂家の家庭教師となり、アメリカン・スクール在学中の百合子(当時16歳)に日本語その他を教える。4月、百合子、文化学院女学部に入学。初夏、百合子らと信州・岡谷に旅行。この頃より腹部の疼痛に悩みはじめる。10月9日、西巣鴨の財団法人・癌研究所附属康楽病院に入院。稲田龍吉博士により胃癌の末期症状と診断される。入院翌日より11月3日まで病床日記をつづる。1227日、病状いよいよ悪化して死期の近いことを悟り、自らの希望により退院、世田谷の家に帰る。この年、《セルパン》《芸術科》《詩法》等に詩を発表。


クリハラ冉篇 左川ちか略年譜より引用  江古田文学2006年秋に収録。

2月、保坂家の家庭教師となる。アメリカンスクール在学中のフランス系混血児保坂百合子(16歳)に、日本語学校受験の準備として日本語を教えた。

7月YOUクラブ結成、会員となる。

夏、百合子等と信州の諏訪岡谷に旅行。諏訪湖を一望する山の寺に滞在。水彩画で湖畔を描いた。胡瓜ばかりの食事で「キリギリスになるところだった」という。この頃すでに胃癌が進行していたが、一度も苦痛を言うことなく、黙っていた。帰旅語2週間頃の明け方、腹部の痛みで眠れずに庭にいたちかを昇(兄)が見つけて病院に連れて行く。

1015日、末期の胃癌と診断される。

癌研究所附属康楽病院入院。入院翌日から日記を毎日つけている。また、札幌からきて帯も解かずに看護している母チヨに次のように語ったという。

「母さん泣かないで、死んでいくのが、わたしでほんとによかった……」

112日で日記は終わる、12月には腹膜も冒された。1227日、世田谷の家に帰る。「誰かあいたい人はいないの」と昇がきくと「ない」と答えた。


by hitoshi-kobayashi | 2018-08-27 08:00 | Comments(0)