2018年 11月 28日
本の話 原民喜全詩集から「ある時刻」岩波文庫
原民喜の生涯は、辛く不幸な出来事の連続でした。作品数は少ない。
しかし、残された作品は心に残ります。
原民喜が唯一幸せだったと思える短い結婚生活の後半、1939年に妻・貞江は肺結核(後に糖尿病を併発)を発病、入院。以後5年に及ぶ闘病生活を送ります。
1944年9月28日、貞江死去、享年33歳。
1943年、原民喜38歳。
原民喜は、最愛の妻の闘病と死に接した絶望的な悲しみを、短い詩篇に表現しています。
「ある時刻」は闘病のころの原民喜の心情でしょう。
「昼」、「夕」、「あけがた」、「昼すぎ」、「暁」、「夜明け」、「夕ぐれになるまへ」を紹介します。
自分の不安な気持ちと、病気の妻をいたわる心が、分かりやすい文章で綴られています。
(ルビ)と(注)は、私が付けました。
ある時刻 1943-44年
昼
わたしは熱があつて睡(ねむ)つてゐた。庭にザアザアと雨が降つてゐる真昼。しきりに虚しいものが私の中をくぐり抜け、いくらくぐり抜けても、それはわたしの体を追つて来た。かすかな悶えのなかに何とも知れぬ安らかさがあつた。雨の降つてゐる庭がそのまゝ私の魂となつてゐるやうな、ふしぎな時であつた。私はうつうつと祈つているのだつた。
夕
わたしはあそこの空に見とれてゐる。今の今、簷(ひさし)近くの空が不思議と美しい。一日中濁つた空であつたが、ふと夕ぐれのほんの一ところ、かすかな光をおび、淡い青につゝまれてゐる。病み呆けたはての空であらうか。幻の道のゆくてであらうか。あやしくもかなしい心をそゝるのである。
あけがた
あけがたになつて見るさまざまの夢。私は人から責められてひどく弱つてゐる。夢のなかで私を責める人は私がひどく弱つてゐるゆゑなほ苛(さいな)まうとするらしい。夢のなかゆゑ、かうも心は細るのに、暗い雨の中をつきぬけてその人はやつてくる。
昼すぎ
朝は楽しそうに囀(さえず)つてゐた小鳥が昼すぎになると少し疲れ気味になつてゐる。昼すぎになると、夕方のけはひがする。ものうい心に熱のくるめき。
(注)
もの‐う・い【物憂い/×懶い】
なんとなく心が晴れ晴れしない。だるくておっくうである。「―・い気分」
苦しい。つらい。
くる め・く 【眩▼く】
物がくるくると回る。
目が回る。目がくらくらする。
あわて騒ぐ。せわしく動き回る。
曉
外は霙(みぞれ)でも降つてゐるといふのだろうか。みぞれに濡れてとぼとぼと坂をのぼる冷えきつた私の姿があり、私のからだは滅入りきつてゐる。もう一ど暗いくらい睡りのなかへかへつてゆくことよりほかになんののぞみもない。いじけた生涯をかへりみるのであつた。
夜明け
おまえはベツドの上に坐りなほつて、すなほにならう、まことにかへろうと一心に夜明けの姿に祈りさけぶのか。窓の外がだんだん明るんで、ものゝ姿が少しづつはつきりしてくることだけでも、おまへの祈りはかなへられてゐるのではないか。しずかな、やさしいあまりにも美しい時の呼吸(いき)づかひをじつと身うちに感じながら。
夕ぐれになるまへ
夕くれになるまへである、しずかな歌声が廊下の方でする。看護婦が無心に歌つてゐるのだ。夕ぐれになるまへであるから、その歌ごゑは心にこびりつく。