2019年 02月 22日
本の話 長光太著「詩集 登高」財団法人北海道文学館発行 2007年
長光太は、原民喜の2歳年下ですが、中学時代に民喜と同人誌を出しています。その後も交流は続き、民喜の生涯を通しての親友であり文学の良き理解者です。
佐々木基一著『昭和文学交友記(新潮選書)』から「原民喜の上京」の一部を引用します。
四六年三月末に原民喜が上京して、大森の長光太氏の家へ間借りして住むことになった。広島で原爆を受け、その後飢餓に苦しめられた人間にしては、比較的元気そうにみえたが、それは原民喜もまた戦後の高揚を身裡に感じていたからであろう。
しかし、一年後の1951年5月、突然民喜は長の妻から立ち退きを求められます。梯久美子は、『原民喜 死と愛と孤独の肖像(岩波新書)』のなかで、その間の事情を書かいています。
長は記録映画の仕事で長く家を留守にしていたが、実は出張先の札幌で愛人を得て一緒にくらしていた。原は、長がもう東京に帰ってくるつもりがないことを、佐々木基一から知らされる。長はその後、妻と離婚して札幌でその女性と結婚し、原がなくなるまで頻繁に手紙のやりとりをすることになるのだが、このときの原は、頼りにしていた長がいなくなって途方に暮れた。
長は、札幌に仕事の拠点を置き、詩、脚本、映画、テレビなど多方面にわたって活動します。
民喜の全集におさめられた長あての手紙から、民喜は死(1951年)の直前まで、長の文筆活動を励まし、編集を担当していた「三田文学」やその他の雑誌への投稿を勧め、さらに長の「詩集 登高」の出版を強く後押ししていたことを知りました。
長の「詩集 登高」は、1945年から1947年頃にはほぼ完成し、出版を待つ状態だったと思われます。本著では、草野心平が1948年3月5日の日付で序を、原民喜が1948年3月の日付で跋を記しています。しかし、出版の直前に延期されました。その事情は、戦後の出版業界の混乱と長の考えによるとしかわかりません。
長は、1977年から1978年にかけて、民喜の義弟・佐々木基一とともに「定本原民喜全集(青土社)」の編集に参加しています。長は1999年、帯広で亡くなりました。享年92歳。
長光太に関する書籍を探したのですが、見つかりませんでした。
しかし、民喜が出版に尽力した60年後の2007年に「詩集 登高」は財団法人北海道文学館により発刊されていたことを知り、購入しました。
本著の編集にあたった平原一良(財団法人北海道文学館理事)は、巻末の「編集覚え書き」で困難な編集作業であったことを述べています。引用します。
長光太詩集『登高』の原稿(四百字詰)一括百六十七枚は、伊藤英信氏(長光太の長男)から財団法人北海道文学館に寄贈いただいた膨大な史料(図書・雑誌、直筆原稿、書簡等)に含まれていたものである。敗戦直後の日本に流通していた粗悪な紙質であったため、劣化が進み、当初は正確な判読をまっとうできるかどうか懸念したが、なんとか終えることができた。
私は本著を手にしたとき、私が嘗て長光太が亡くなった帯広に長く住み、現在、長光太が活動の拠点とした札幌に住んでいることに、ほんのわずかですが原民喜が取り持った因縁を感じました。
長光太略歴 『登高』巻末略年譜を抜粋。
1907(明治40)4月1日、広島県広島市研屋町82番地に生れる。
1923(大正12)5月、謄写版印刷の同人雑誌「少年詩人」に参加。原民喜が加わる。16歳。
1925(大正15)早稲田大学フランス文学科入学。18歳。
1929(昭和4)早稲田大学フランス文学科中退。22歳。
1931(昭和6)婦人画報社編集部入社(嘱託編集記者)。24歳。原民喜自殺未遂。
1946(昭和21)「近代文学」創刊号に詩2篇を発表。39歳。
1948(昭和23)7月、伊藤スエと結婚、末田姓を改め伊藤信夫となり、戸籍を札幌に移す。41歳。
1951(昭和26)3月13日、原民喜死す。12月、北海道放送(HBC)入社。44歳。
1963(昭和38)突然に心身症・多発性神経炎のため全身凍結。一切仕事を禁止される。56歳。
1976(昭和51)協議離婚。戸籍を東京に移す。映画製作、テレビドラマを手伝う。69歳。
1977(昭和52)山本健吉、佐々木基一とともに『定本原民喜全集』(青土社)の編集に携わる。70歳。
1995(平成7)心身症が快方に向かう。帯広市の伊藤英信宅に移る。88歳。
1999(平成11)帯広市内帯広厚生病院で死去。92歳
2007(平成23)『詩集 登高』発行。