2019年 06月 21日
本の話 『夜が淋しくて誰かが笑いはじめた 住宅顕信 全俳句集実像集』
『夜が淋しくて誰かが笑いはじめた 住宅顕信 全俳句集実像集』
監修=池畑秀一 小学館2003年
本の帯のある住宅顕信(すみたくけんしん)の略歴・生涯です。
―― 中卒後、調理師学校へ。/22歳、得度。結婚、そして発病。
4カ月後、長男誕生。離婚、病床で育児。/25歳、永眠。
本書の構成は、顕信の俳句をテーマに分けて章とし、顕信の生涯のドキュメンタリーを章の最後に置くことで、彼の全体像を描いています。
監修・池畑秀一は、「はじめに」で次の様に述べています。
―― 本書はルポライターの佐々木ゆり氏の精力的な取材による、顕信の人物像に迫った文章と、顕信の俳句から成っている。俳句は句集『未完成』の全二百八十一句と、少しの未発表俳句も含まれている。
顕信の俳句は、自由律俳句です。自由律俳句の代表的俳人として、種田山頭火、尾崎放哉が知られています。顕信は、尾崎放哉に傾倒し、『尾崎放哉全集』彌生書房昭和47年(1972)をボロボロになるまで読み耽り、ついには二冊目の同じ本を読んでいたそうです。
在宅顕信句集『未完成』は、顕信の一周忌の昭和63年(1988)2月7日に、この彌生書房から刊行されました。顕信と放哉の間の不思議な巡り合わせを感じます。
顕信と放哉の生き方は、違います。
放哉は、俳句創作への意欲だけを生きる糧とした世捨て人のダメ人間です。最後は瀬戸内海の小島でひたすら死を待つような生活を送り、一人寂しく亡くなります。しかし、死を視凝め、紡ぎ出した俳句は、声を出さない静かな叫びであり、読み手の心に響きます。
顕信は、若く、自我が強く、「どうしたら自分自身の思いを表現できるのか」に、強いこだわりを持ち、生き方と表現方法を模索します。振幅・起伏の大きな生き方を選びます。生きることを諦めることを考えてはいないのです。
しかし、急性骨髄性白血病の闘病のため、狭い病室での生活を余儀なくされます。そして自由律俳句にたどり着きます。生きる意志と死の不安を病床で詠んだ顕信の俳句が281句+α。どれほど自分の言葉を探したのでしょうか。彼のドキュメンターがなくても、彼の句の思いは、読み手に強く響き、彼の苛烈な境遇を想像させる力を持っています。顕信の生きることへの意欲と辛さが、心の叫びとして分かりやすい言葉で綴られています。ここに尾崎放哉に通ずるものを感じます。
私が好きな顕信の句です。
バイバイは幼いボクの掌の裏表
顕信は父なのです。病院で育児をしています。病院から家へ帰る我が子を詠んだ句だと思います。幼い子のバイバイは掌を振らずに裏表に反します。その仕草を見送る顕信の子供への愛おしさが伝わります。
私が印象に残った作品を紹介します。末尾の括弧内は、本著の各章のタイトルです。
レントゲンの早春の冷たさを抱く(闘)
月明り、青い咳する(闘)
レントゲンに淋しい胸のうちのぞかれた(哀)
耳を病んで音のない青空続く(哀)
どうにもならぬことを考えて夜が深まる(憂)
誰もいない壁に近く坐る(独)
おなべはあたたかい我が家の箸でいただく(喜)
電話口に来てバイバイが言える子になった(愛)
淋しい指から爪がのびてきた(望)
見上げればこんなに広い空がある(望)
自嘲 合掌するその手が蚊をうつ(苛)
さめて思い出せない不安な夢である(苦)
若さとはこんな淋しい春なのか(想)
朝露をふんで秋風の墓をまいる(死)
住宅顕信(すみたくけんしん)本名は春美。プロフィール(本書、帯から)
1961年岡山生れ。地元中学卒業後、調理師専門学校を経て、岡山市役所勤務。22歳時、京都西本願寺で修行、得度する。この頃結婚するも、84年に急性骨髄性白血病を発病。その4か月後、長男誕生、まもなく離婚。子供を引取り、病室で育児も。十代後半から種田山頭火、尾崎放哉に傾倒し、同人誌に投句を始め、入院中に『試作帳』を自費出版、87年他界。死後、その鮮烈な句が、国内だけでなく海外でも話題になる。
一句一句が切ない、そして人間味溢れた句ですね。
わずか25歳という若さ。考えさせられました。
御紹介いただいてありがとうございました。