2019年 10月 14日
本の話 帯広市緑ヶ丘公園の歌碑の事
帯広市緑ヶ丘公園「彫刻の径」を過ぎたあたりに大きな歌碑があることに気がつきました。
降りこめし雪ふかふかと物音吸ひ 夜の地表にひびく音なし
精盛
音もなく深々と降り来る雪は、まわり音を吸収してしまいます。静かないい歌である印象が残りました。歌を詠んだ作者は「舟橋精盛(せいもり)」。
札幌に戻り、「舟橋精盛(せいもり)」を調べ、彼の「歌集残日」(短歌新聞社昭和55年)を買い求めました。
きっと、「作者の心と自然との関係を視凝めた静かな歌が多い」のでは、と思っていました。
全く違いました。病気と闘い続けた日々の日常を詠んだ歌なのです。
一気に読みました。
病の辛さを率直に詠むことによって、どこか気持が解放されるのでしょうか。また歌を繰返し推敲し、より良い歌にしたいという強い思いが、病の辛さに打ち勝つ力になるのでしょうか。選び抜かれた言葉が、まっすぐに響きます。
退院の章 昭和50年
一滴の水を飲むさへ禁じられ生きつぎ来しよああ十三日目
胃を除りし凶つ年はよに逝けよかし師走なかばに詠む新春歌
まきばの家
照る砂利をまぶしみにつつ登る坂一歩一喘といへ現身(げんしん)
野に森にみどりあふるるありさまは涙ぐましむ患越えし身に
胃袋を除りたつものを酒の慾あはれ断ち得ず業のごときか
小樽行き
一年は長しともまた短しとも行き先小樽の汽車にいま在り
日高・浦川行き 昭和51年
凶つ年ははよ去(い)ねかしと棄てしごと氷雨(ひさめ)の畑に農人を見ず
昭和51年は冷夏のため多くの農作物に被害がありました。舟橋は若い頃、農業に従事していました。
妻呼ぶブザー
過ぎ来しに骨詠み胃よみ肝よみき何処をうたひて病みはつるか
妻を呼ブザーを押せど直ぐに来ず商ひゐると知りつつ苛つ
「商ひ」とは、玩具屋の事でしょう。客がいることは分かっているが、病気で寝ている自身の苛立ち詠んでいます。
夜の蚊
食事ごと胸の閊(つか)へにながす泪ふきくるる妻もまたなみだして
吾のため夜の蚊をとると臥所(ふしど)めぐり妻のうつ掌の寂しき音や
妻・麗子は舟橋が癌に侵され、余命が短いことを知っています。しかし、舟橋には告知していません。
雨音
ひもじさを思へどすでに食へざれば責苦のごとき食事どき来る
盂蘭(うら)盆のふけゆく夜も咳きに咳き眠りのひまなるこの世も雨音
舟橋精盛 「歌集残日」の略歴から
大正4年、北海道浦幌村上浦幌に生れる。
昭和5年、本別尋常高等小学校卒業ののち実家の農業に従事、この頃より作歌を始める。
昭和9年、第一歌集「少年期」を刊行
昭和11年、旭川野砲聯隊(やほうれんたい)に入隊
昭和13年、召集、北満済々哈爾(チチハル)に駐屯、北支、張鼓峰(ちょうこほう)、ノモンハン島に転戦。
昭和15年、召集解除
昭和20年、両側股関節結核で倒れ、以後10年近く闘病、転院。5度の手術を受ける。
昭和30年、帯広市緑ヶ丘で玩具店「どんぐり屋」を開店。
昭和33年、結城麗子と結婚。
昭和50年、帯広厚生病院にて胃潰瘍の手術を受け、胃のほとんどを切除。
昭和53年9月26日、帯広市文化賞を受賞、病床でその伝達を受ける。
昭和53年9月27日、同病院にて胃癌のため死去。行年64歳(62歳11ヵ月)
昭和55年に「歌集残日」は、妻麗子の詩集発行の思いを、舟橋の友人たちが支え、刊行されました。
舟橋精盛は、病の辛さに堪えながら短歌を詠み、同人誌に投稿しています。舟橋自身も発表の場をつくるため同志とともに歌誌の創刊・廃刊を繰返し、作歌の指導に努めてきました。私が見た歌碑は、歌の同志が舟橋精盛の功績を後世に残すために建立したものです。