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早瀬耕著「グリフォンズ・ガーデン」早川書房(ハヤカワ文庫)2018

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以前本ブログで紹介した「未必のマクベス」の著者・早川耕の処女作です。


1992年に早川書房から単行本として刊行。2018年に文庫化した作品です。


早瀬耕の博識ぶりは大変なものです。情報、音楽、哲学、等々・・・・・・。

これまた博識の恋人との会話は、信じられないくらい難しくて、一種の議論小説の要素も持っています。その道の方が読むと、耐らないでしょうね。私はチョット参りましたが・・・・・・。

難しい議論の理解を諦めて、飛ばし読みです。

そうすると残るのは、爽やかすぎる純な恋愛です。

本作品では、並行するかのような二つの世界が交互に描かれます。一つは東京での院生時代。一つは卒業後の札幌での研究所でのAIに関する仕事。

この作品の導入は奇妙な違和感で始まり、大きな山や事件はなく、淡々と進行します。

しかし、「アッツ!」と驚く結末で、その違和感は氷解します。

二つの世界の主人公は、「ぼく」という人称で行動します。多分同じ人物らしいのですが、何か変です。素敵で魅力的な恋人が両方の世界で登場します。東京は佳奈、札幌では由美子。二人はよく似ている性格なのですが、別人のようです。

「ぼく」君はモテルんだな~ なんて思っていると、これは早瀬耕が仕掛けた罠です、

私は、途中でこの罠に気がつき。構成の上手さに舌を巻きました。

早瀬耕の作品構成力は、「未必のマクベス」でも感心しました。


私の突然の結論です。

早瀬耕は、「時間とは何か?」の疑問を描きかったのです。

私は、難しい議論に悩みながら完読したのですが、正直、物足りなさが残りました。これは、「未必のマクベス」でも感じました。


余談です。

舞台は札幌。「ぼく」君が勤めるAI研究所は、札幌中島公園内にあります。本当はありません。グリフォンの像もありません。


早瀬 耕(はやせ こう、1967- )は、日本の小説家。東京都生まれ。一橋大学商学部経営学科卒業


by hitoshi-kobayashi | 2019-05-20 08:00 | Comments(0)

私は、加清純子(かせいじゅんこ)(193352年)を全く知りませんでした。

特別展の副題が――『阿寒に果つ』ヒロインの未完の青春――です。

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特別展パンフレット裏面を引用します。

――渡辺淳一の『阿寒に果つ』(初版1973年)のヒロイン時任純子のモデル として知られる加清純子は第二次大戦後の日本釈迦の反権威世代(アプレゲール)で、デカダンでアヴァンギャルドに時代を駆け抜けた天才少女画家です。――


渡辺淳一と加清純子は札幌南校の同期生であり、青春の一時期を共有しています。二人は友人以上の関係であったことは、当時の同期生の話や『阿寒に果つ』の内容から推察されています。

加清純子は、1952年、阿寒山中、遺体で発見されます。マスコミは天才少女の死をセンセーショナルに書き立てました。遭難死とも自殺とも憶測がありますが、真相は不明です。渡辺淳一が、加清純子の死後20年後に『阿寒に果つ』を発表したことからも、彼にとって加清純子の存在とその死が如何に大きな衝撃だったのかがうかがえます。

加清純子を知らず、『阿寒に果つ』も知らず、彼女の美術と文学に高い評価があったことも知らずに、特別展に行きました。

衝撃的でした。


二つの自画像が展示されていました。

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私はこの絵の前で立ち止まりました。

阿寒に立つ数日前に描かれたものです。

〈自画像〉1952年(昭和27年)、油彩、19.0×24

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たくさんの明るい色を使いながら、何と寂しい、何と疲れ切った、表情のない加清純子なのでしょうか。見ること、話すことを拒絶し、眼をつぶって何を考えているのでしょうか。
とても18歳の女性が描いた自画像とは思えません。激しさと虚無が共存しています。

そんな自分を描く加清純子は、この絵の自分の何を視凝めているのでしょうか。

彼女の美術作品のスタイルは、短い生涯でありながら多様に変化しています。

まるで、自分の死を予感しているかのように、生き急いでいるのです。完結を急いでいるのです。時代は彼女を天才と煽りました。しかし、彼女の友人をふくめ、取巻く環境は、彼女の鋭く豊かな感受性と彼女の変化のスピードついて行けなかったのかもしれません。彼女は、自分自身で解決できない困難な精神状態に陥り、もどかしさを感じ、行動が更に先鋭化したのではないでしょうか。また、傷つきやく壊れやすい自分の精神を隠すために、奔放的・攻撃的・刺激的な行動だったのではないでしょうか。

作家・荒巻義雄は、加清純子、渡辺淳一と札幌南高等学校の同期生です。

展示会では荒巻義雄の加清純子の印象のインタビューをビデオで流していました。

荒巻は、加清純子の文学的才能を高く評価しています。

文学館で見学後に購入した小冊子に加清純子の文学作品が収録されています。


まだ、全作品を読んでいませんが、「青銅文学」創刊号19521020日に掲載されてる「一人相撲」の附記の最後の一文が強烈でした。引用します。

 

――私には恋と、製作意欲とはまったくけじめがつかぬばかりでなく、もし描きつくされぬ完全なモチーフにぶつかったならば、私はきっと、その為には死すら恐れないだろう、等と考えている。――

この小冊子では、加清純子と時間を共有した人たちが、彼女の印象を語っています。彼女が残した作品以上に、彼女の存在・生き方が、古い意識を持つ人たちだけでなく、若者ですら持ち得なかった輝きを放ち、驚きを与え、惑わし、強い印象をのこしたと思えます。
私は、渡辺淳一の作品を読んだことがありません。

しかし、加清純子の文学作品を読み終えた後、渡辺淳一の『阿寒に果つ』を手にして、芸術に対峙して純粋に激しく挑み、そして死んだ彼女の輝きと鋭い感受性に触れてみたいと考えています。

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by hitoshi-kobayashi | 2019-04-21 08:00 | Comments(0)

私は、今迄いくつかの原民喜の作品を読んでいますが、民喜の心に少しでも近づきたいと思い、作品をワープロで打ちながら読むことにしました。

まだ、始めたばかりですが、毎日更新を目標にBlogを開設し掲載し始めました。

興味のある方は、覗いてください。

現在、1935年に民喜が自費出版した短編集『焔』を掲載中です。



by hitoshi-kobayashi | 2019-04-16 10:12 | Comments(0)

向井豊昭著「骨(こつ)踊り 向井豊昭小説選」 幻戯書房 2019

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20190323日の朝日新聞のサンキュータツオの書評を読みました。

「ヘエ~、今頃向井豊昭か・・・・」と思いながら、買いました。


向井豊昭は気になっていた作家で、以前、「BARABARA(バラバラ)」(四谷ラウンド)と「向井豊昭傑作集 そらとぶくしゃみ」(未来社)を読みました。

向井豊昭を知っている人は少ないでしょう。中央でガンガン書いて、売れていた作家ではありませんし、既に故人となっています。

著書のタイトルである「骨(こつ)踊り」を先ず読みました。


ストーリーを超簡単に説明します。

北海道から東京に引越し、小学校の代用教員をしている主人公(著者・向井豊昭がモデル)の一日が描かれています。

起床に始まり・出勤・帰宅・就寝で終わります。


日常的な行動のなかで、時空を超えた妄想というか、本音というか、空想が展開されます。

よく読むと展開は繋がるのですが、いきなり骸骨が出てきたり、おじいちゃんが出て来り、現実に戻ったりしますので、呆気に取られてしまいます。
しかし、妄想は単に妄想に終わらず、それは日常の不条理や差別などの現実の問題に転換するのです。その範囲はとてつもなく広く、向井豊昭の問題意識と懐の深さを感じます。

主人公は妄想をすると、現実の自分を取り戻すために、妄想状態の自分を脱ぎ捨てていくアイデアが秀逸です。脱ぎ捨てた自分は、一日で二十二人に上ります。

日常的な現実は、実は沢山の矛盾と問題に満ちています。

主人公自身の出目とその負い目。

主人公の家庭の問題。

学校教育の問題。

などなど、本人の力で解決できない問題を赤裸々に描きます。

ふと自分に当てはめてみると、一日のなかで何度も過去のことを思い出し、「ああすればよかった。」と後悔し、幸せなのか不幸なのか分からない未来に思いをはせ、思い通りにならない現実に腹を立てています。

本作品は、とりとめのない一見、荒唐無稽なストーリーと思えますが、向井豊昭の視点と批判精神はブレません。
主人公は、「めげる」という視点がないのです。主人公は、とても安定した判断力と批判力を持っています。しかし、簡単に現実・過去・将来の問題は解決できないのです。ですから、サスペンスやラブロマンスの様に読了後スッキリした気分になれません。

この作品は、生きている・生活している人間が、取巻く環境がどうあっても、図太く生き続けて行こうとする姿を描いているとも云えます。


さまざまなエピソードが展開しますが、代用教員として勤める小学校での子供たちがとても活き活きと描かれています。この部分を読むだけで向井豊昭が筆力豊かな作家であることが分かります。

向井豊昭の文筆活動は巨大です。もっと、もっと読まれて評価されていい作家です。

私は、暫くの間、向井豊昭と向き合ってみようと思っています。

向井豊昭の作品は入手が難しいかもしれません。

本著のタイトルとなっている「骨踊り」はインターネットの「向井豊昭アーカイブ」で読むことができます。略歴はアーカイブを見て下さい。

是非一度覗いてください。


向井豊昭アーカイブ



by hitoshi-kobayashi | 2019-04-13 08:00 | Comments(1)

早瀬耕著「未必のマクベス」早川書房 2017

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―― 分からない所があって、二度読んじゃった。

―― 面白いの?

―― 面白い! 堤真一・常盤貴子のマクベス観たよね

―― じゃ、読んでみるかな・・・・


取り掛かっている本を読み終えて、GO

著者・早瀬耕が、シェイクスピアの4大悲劇の一つ「マクベス」をどんな風に料理するのかに興味を持ちました。22年ぶりの長編第2作だそうです。

私は、サスペンスはあまり読まないですが、面白さは解かるつもりです。

一気に読みました。

これ、恋愛小説です。それも恥ずかしくなるくらいプラトニックで純です。


舞台は香港、基本の流れは、企業戦士中井が仕掛けれらた罠に立ち向かうストーリー。

中井の青春時代に抱いた淡い恋の回想がもう一つの流れ。

この二つの流れが、「マクベス」のストーリーに未必に組み込まれます。しかし、著者・早瀬はすれすれのところで「マクベス」から身をかわします。

派手なアクションはなく、ストーリーは淡々と流れます。「マクベス」の様に暗くドロドロした雰囲気はなく、逆に明るささえ感じます。

香港や澳門の都会が魅力的に描かれ、登場人物は東京・香港・バンコク・ホーチミンの街を楽しんでいるかのようです。

人物のキャラクターが薄い感じがしました。主人公中井は人を殺すことができると思えないほど、影の無い良い人です。

ICカードの仕組みの話が出てきます。これって大切なポイントですが、難しくて分かりませんでした。分からなくても大丈夫です。ストーリーはつながります。

展開が上手ですね。「マクベス」を知っていても展開を読み切れませんでした。

展開が早いので、最後はどうするのかと心配になりましたが、著者・早瀬の引出には沢山のエピソードがあって飽きさせません。ストーリーが弛むことはありません。

シェークスピア「マクベス」の様に読書後暗澹たる気持ちになる事はありません。むしろ爽やかな印象が残りました。


私がプロデューサーとしたら、こんなキャストで「未必のマクベス」映画化します。妄想です。遊びです。

主人公・中井優一:堤真一。 舞台を見たので外せません

中井の秘書・森川佐和:吉田羊。ファンです。表情を押し隠しながら、ちゃんと演技ができる。

中井の恋人・田島由紀子:常盤貴子。舞台を見たので・・・。

中井の同僚・伴浩輔:阿部寛。ガタイが大きい。憎めないキャラクター。

中井の同僚で野心家・高木:伊勢谷友介。偏執的な演技に魅力

カイザー・リーの秘書・呉蓮花:すみれ。単純にファンです。

中井の秘書兼殺し屋・陳零:栗原千明。映画『キルビル』の殺し屋「ゴーゴー夕張」役をイメージ。

謎の中国人・カイザー・リー:志村けん。 真面目に渋く演じて欲しい。


by hitoshi-kobayashi | 2019-03-20 08:00 | Comments(0)

長光太の「詩集 登高」の発行・出版の経緯は、以前のBlogで簡単ですが紹介しました。


今回は、詩を一篇紹介しようと思います。

本著に別添されている解説で、笠井嗣夫が「戦後詩の隠れた高峰」に長光太の詩の特徴を書いています。引用します。

 「すべての作品が、漢字・カタカナのみの表記だということ。さらに完全な現代仮名遣いではなく、発音と仮名表記を一致させている。」

私にとって、とても読みにくいと感じたのが正直なところです。

そこで、漢字・カタカナ文を漢字・平仮名に書き換えました。単語が漢字に変換可能と思える場合は漢字に換えてみました。これは著者の作意を冒瀆することかもしれませんが、私が長光太の詩を読むために個人的に使った方法とご理解下さい。引用は両方を併記します。漢字への変換、句読点の追加は私の責任です。


「波」 長光太

ワタクシワウチカエス波ノヨウニ         私は打ち返す波のように

ウチエシウチカエスウチヤマヌ波ノヨウニ     打ち返し打ち返す打ち止まぬ波のように

ワタクシヲトリマイタ岸壁メザシヒタオシ     私を取巻いた岸壁に目指しひた押し

ソビエタツガンコナ崖ニウチムカイ        聳え立つ頑固な崖に打ち向い

巻キアガリウチススミホトバシリ         巻き上がりうち進みほとばしり

シロクワレクダケマイ              白く割れ砕けまい

シワブキチル                  しわぶき散る

ワクシワヒイテ                 私は引いて

マタウチカエス 波ノヨウニ           また打ち返す 波のように 


ハヤテ フケ                  疾風吹け

クモゾラヲヒルガエセ              雲空を翻せ

ワタクシノモロウデガクシケズラレ        私の諸腕が梳られ

ワタクシノカミノケガハリガネトコゴエタチ    私の髪の毛が針金と凍え立ち

ワタクシノオラブコエタカクドヨモシワタリカエリ 私のおらぶ(叫ぶ)声高く、響もし渡り返り

イヤサラニタケタカクフルイアガリイタカブリ   否、更に丈高く奮い上り高ぶり

ソソリカエル岸壁ウチクダキサルマデモ      そそり返る岸壁うち砕き去るまでも


ワタクシワウチカエス波ノヨウニ         私は打ち返す波のように

イキドオル爪アトヲウガチオエルタメ       憤る爪痕を穿ち終えるため

命ノシルシホリツケルマデクリカエシ       命の印彫りつけるまで繰り返し

ヒタウチサカマキウチカエシ           ひた打ち逆巻打ち返し

マタクダケウチカエス              また砕け打ち返す

アアトコシエノ                 ああ永久に

波ノヨウニ                   波のように


この詩集は、発行は2007年ですが、1947年頃に出版可能な形にまでまとめられました。

「序」を草野心平が、「跋」を原民喜が書いています。

「序」は、「切ない絶望から発する登高への意図(後略)」から始まります。

詩「波」は、繰り返す波にたとえた〈登高の意図・決心・繰返し〉と思えます。

原民喜は「跋」で、1943年、親友・長光太から3年ぶりの便りがあり、その後便りは続きます。詩も書かれていて、民喜は「1943年(昭和18年)といへば、光太にとっても私にとっても暗澹とした季節であった。それだけ長光太が詩を書きつづけてゐることは切実なものがあった。」と、書いています。

民喜の妻・貞恵は1943年頃結核の闘病を続け、19449月に死去しています。

長光太は、1941年(昭和16)戦時共産党再建事件に連座、検事交流を受け、1943年不起訴となります。

原民喜は長光太の生き方・作品の理解者であり、長光太も民喜に対して同じく感じ、接しています。


 長光太は1947年頃から札幌に住み、活動の拠点としました。その活動の範囲は膨大です。しかし、残念ながら、長光太の活動をまとめたものを見つけることができませんでした。


by hitoshi-kobayashi | 2019-03-11 08:00 | Comments(0)

漂泊の俳人井上井月(いのうえせいげつ)の句集です。

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井上井月(18221887)は、信州伊那谷に長期に留まり、1,500句ほどの俳句(発句)を残しました。この句集には1297句の作品が収められています。

井月を世に紹介したのは、下島勲(1870年 ~1947年)。井上井月の句を取集し、句集として纏め発表しました。下島は、井月が漂泊・逗留していた長野県伊那の出身で、幼少のころ井月に出合っています。芥川龍之介が井月の句集の出版を強く後押ししています。

下島勲は芥川龍之介と親交があり、芥川が自殺したときに診療を行った医師です。

井月は芭蕉を神のごとく尊敬し、自ら芭蕉の生き方を踏襲したいほど松尾芭蕉が大好きなのです。(数字は本句集で記されていた順番を表しています。


1060
 我道の神とも拝(をが)め翁(おきな)の日

1061 明日知らぬ小春日和や翁の日

「翁の日」は旧暦1012日の芭蕉忌のことです。


井月については分からないことが多いのですが、下島勲が、巻末で略伝、井月の奇行・逸話や人となりを紹介しています。世間では、彼を評して、行脚俳人、乞食井月、虱井月、漂泊井月と云っています。

水月の風貌を下島が略伝に書いています。引用します。


――井月は痩躯長大、禿頭無髯、眉毛の薄い、切れ長なトロリとした斜視眼の持主で。故大隈侯と石黒况翁の顔貌に似かよった、極めて無表情で間の抜けた、さながら彫刻の様な印象が残っている。


井月は性格が温和で、怒ったところを見たことがなく、正気なのか酔っているのか判断できないくらい、小さな声でボソボソとした口調だったといわれています。


井月の書、下島勲が子供のときに会った井月の印象をもとに描いた風貌。

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井月の素性はよくわからないのですが、かなりの学識があったようです。達筆であり、俳句論なども表しています。

私は、井月の俳句はとても分かりやすく、素直な性格を感じます。

しかし、井月が酒浸りの漂泊の俳人となり、住み家を定めず、身なりも気にせず、乞食井月と呼ばれる生活を送った真意は分かりません。


井月の最後は壮絶です。略年譜を引用します。

明治19年(1886年)65歳、12月某日、伊那村路傍にて発病。梅関方に運ばれ、病臥越年。

明治20年(1887年)66歳、216日没。享年66

伊那村路傍とは乾田です。息も絶え絶え糞まみれで倒れていたそうです。


井月は酒豪ではありませんが、無類の酒好で、酒を求めて知り合いの家を訪問しています。

酒を詠んだ句が多いことに気が付き。その中から、「いいな~、そうだ~」と感じるものを選びました。酒がテーマですと、陽気で明るい雰囲気を感じますが、ときおり寂しげな井月が見え隠れします。


214
 盃の封切や梅の匂う時             封切=使い始め

265 明日(あす)しらぬ身の楽しみや花に酒

313 盃洗(はいせん)に散(ちる)影うつる桜かな

323 乞食にも投盃や花の山             

552 水味(うま)き酒の寄特や時鳥(ほととぎす)  水味き酒の寄特=酔い覚めの水

603 冷(ひえ)て飲(のむ)酒に味あり蝉の声    冷えて=冷やして

812 餅も酒も皆新米の手柄(てがら)かな

860 鴫(しぎ)鳴くや酒も油もなき庵(いほり)

1023 初雪や小半酒(こなからざけ)も花ごゝろ    小半酒=二合五勺の酒

1228 初空を心に酒をくむ日かな


265 明日(あす)しらぬ身の楽しみや花に酒―

〈明日知らぬ身〉は、〈明日は死んでいるかもしれない〉との意味にとれます。だからこそ酒を飲むことを楽しみたいのです。いつ死んでもかまわない心境です。  


860 鴫(しぎ)鳴くや酒も油もなき庵(いほり)―

淋しい句です。寒い秋の夜、酒も灯をともす油もなく、一人で庵で眠れずにいる。鴫の鳴き声だけが聞こえる。


酒以外のテーマから3句を紹介します。

20 東風(こち)吹くや子供の持ちし風車(かざぐるま)

46 何処(どこ)やらに鶴(たづ)の声聞く霞かな    臨終の折書いた旧作

63 初虹は麓に消えて富士の山


下島 勲(しもじま いさお)

1870920日(明治3825日) - 1947年(昭和22年)530日)

日本の医師、俳人。号は空谷(くうこく)。長野県伊那郡原村(現・駒ケ根市)出身。東京の田端に医院・楽天堂を開業。書画・俳句などを通じて芥川龍之介・室生犀星・久保田万太郎・菊池寛・板谷波山・萩原朔太郎ら多くの文士・彫刻家・画家などと親交を深めた。芥川とは特別懇意になり主治医としてその最後を看取った。また郷里の伊那に埋もれていた井上井月を紹介した。


by hitoshi-kobayashi | 2019-01-26 08:00 | Comments(0)

息抜きにミステリーでもと、書店へ。

平積みの本の帯に〈本年度柴田錬三郎賞・毎日出版文化賞ダブル受賞〉とあります。私は、「〇〇賞」を意識して本を選ぶことはありません。まして、この二つの賞がどのくらいの重みなのか全く分かりません。ただ、「柴田錬三郎」の文字に妙に引き付けられました。

柴田錬三郎の若い頃、原民喜が生前編集していた「三田文学」に小説を発表しているのです。勿論、「眠狂四郎」ではありません。そのことが私の頭をかすめました。本を選んだ動機はいい加減です。

(前置きが長い!)


奥泉光著 「雪の階(きざはし)」中央公論新社 2018

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本著は、600頁に及ぶ長さですが、一気に読みました。

時代は昭和10年(1935年)から昭和11年(1936年)。

二・二六事件当時の日本の不穏な状況を背景に、華族のお嬢様笹宮惟佐子(20歳)が親友・寿子の死(心中)に疑問を持ち、謎を追いかけるというのが、小説の大きな流れです。

この惟佐子の不思議な性格を解き明かすことがもう一つの流れです。

美人で、数学が好きで、碁が強く、感情を表さない、霊感が強く、本人も分からない不思議な幻想に入り込む等など・・・。この性格の一つ一つがミステリーのエッセンスとして見事に料理され無駄にされていません。お見事です。

惟佐子はお嬢様ですので行動範囲は限られます。「おあいてさん(幼少時の遊び相手)」だった新米カメラウーマン牧村千代子(23歳)は、惟佐子から謎の調査を頼まれ、新聞記者・藤原とタッグを組みます。このコンビは見え見えに恋に落ちます。

この安心感のある見え見えがなんともいいのです。

神秘的な惟佐子の推理力、明るい千代子の行動力、藤原のおとぼけの組み合わせでストーリーは展開します。千代子は一般人で普通の感覚の持ち主です。いや、昭和10年当時、女性カメラマンは非常に珍しいでしょうから、普通ではないかもしれません。強い意志の持ち主でしょう。

ミステリーの前半部は事件の背景・登場人物の紹介などが描かれ、読者をミステリーの世界に導きます。重要な人物が登場を終え、人物の個性の理解ができると、ストーリーの展開が早まり、本についている紐(スピンというそうです。)が挟まっているあたり(約半分)が転換点かな。

その後は、展開に加速度がつき、結末へとなだれ込みます。
書いていて、この本の内容が誤解されそうな気がしてきました。

ミステリーですので、「ネタばれ」を避けますが、チョットだけ付け加えます。
ミステリーを構成する仕掛けは、政治、軍隊、オカルト、ナチス、同性愛など多岐にわたります。決してお嬢様探偵の大活躍で、めでたし、めでたしではありません。

ミステリーは結末に向かって二転三転するのは分かっていたのですが、良くも悪くも「へ~、この事件はそんな終わり方なの・・・・」感が残りました。


著者の奥泉光については全く知りませんでした。


―― その人、ときどき新聞下段の新本の広告に名前がでてるよ。


ミステリー好きの、相方が教えてくれました。


昭和10年当時の雰囲気を出すためか、変わった言い回しを頻繁につかいます。例えば、たばこは「煙草」ではなく、「莨」。マッチは「燐寸」です。

ルビが面白い。つなぎ服には〈ワンピース〉、白胴衣は〈ブラウス〉とルビを振っています。


奥泉光はなかなかの諧謔的ユーモアセンスの持ち主で、いいタイミングでミステリーの緊張をほぐしてくれます。

鹿沼駅前の食堂のおやじを、〈泥から掘りだした蓮根みたいな老翁〉と表現します。蓮根を掘ったことがないので自信がありませんが、おやじの田舎びた雰囲気を感じます。また、新聞記者の顔を、〈蟷螂(かまきり)を狙う猫みたいな顔〉と例えます。

割り下に砂糖を使わない銀座のすき焼きの名店で、甘味の好きな惟佐子は、店に砂糖を要求して自分の鍋に入れます。痛快でした。


私の読書力と理解力がたりないのか、くねくねした文章に出くわすと、話者(著者)の視点が分からなくなることがしばしばありました。読み返してみると意味は理解できるのですが・・・・。あまりない経験です。


奥泉光の旺盛なサービス精神によって盛りだくさんの内容ではありますが、読み終えて私に残ったものは、「惟佐子の持つ不思議な神秘的美しさ」です。

極上の甘さを感じたミステリーでした。


by hitoshi-kobayashi | 2018-12-24 08:00 | Comments(0)

私には、折口信夫に近寄りがたい印象がありました。

何しろ民俗学では柳田國男に並ぶ巨人です。

ずいぶん前ですが、折口信夫著「死者の書」にトライしました。あっけなく撃沈。途中で挫折です。

しかし、なんとなく折口信夫に心残りがあり、〈人となり〉から入ってみようと一念発起で、持田叙子著「折口信夫 秘恋の道」を手に取りました。

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この本は、伝記であり、評論であり、折口信夫を主人公とする小説とも呼ぶことができます・もちろん、史実に基づいて書かれていますので、完全フィクションとは言えませんが、折口信夫の精神世界を理解し、表現するには強靭な想像力が必要です。持田叙子は、折口信夫ともに生きていたかのように、資料(史料)と想像力を駆使して、その生涯を丁寧にたどります。これは凄いエネルギーが必要な仕事だと思います。

折口信夫は複雑な人です。その複雑な折口に「恋」というキーワードに多くの意味を含めて、著者・持田は切り込んでいきます。

私は、読みながら持田の言わんとする「恋」を「一途さ」と理解することにしました。

持田は折口信夫への強い思いを原動力にして、巧みな文章と構成で、万葉集の研究、民俗学の研究、釋迢空としての短歌、徹底した正直で頑固な人間関係、に「一途な人」であったことが明らかにしていきます。


持田叙子の文章がとてもきれいなのです。冒頭の文章を引用します。

 


「いつのまにか、市場町のざわめきは潮のように引き、陽の色がさむざむと陰っている。そういえば表のくすりやの店先に、人声もしない。奥の台所から、たっぷりと昆布をおごった美味しそうなおつゆの匂いがただよってきて、えいは編棒を動かす手先から顔を上げた。」

映画・舞台の導入のワンシーンのようです。


「えい」は折口信夫と同居している叔母(母親の妹)で、良き理解者して登場します。


しばらく折口信夫にどっぷりとつかるつもりで、彼関連の本を数冊求めました。

富岡多恵子著 「釋迢空ノート」 岩波現代文庫

岡野弘彦編 「精選 折口信夫 Ⅱ 文学発生論・物語史論」 慶応技術大学出版会

折口信夫作「死者の書・くちぶえ」岩波文庫

折口信夫著 「口訳万葉集」 岩波現代文庫


今、富岡多恵子著「釋迢空ノート」を読んでいます。富岡多恵子は釋迢空(折口信夫)の短歌を丁寧に解釈して、釋迢空の精神世界を解きほぐしています。

折口信夫著「口訳万葉集」は拾い読みです。本を適当に開き、そこにある詩と詩の訳を読みます。とても面白い。1,000年以上も前の人たちの感情や思いは、現代と変わらないのに驚きました。学校で学んだ万葉集は全くつまらなかったのに・・・・・。


by hitoshi-kobayashi | 2018-12-15 11:27 | Comments(0)

堀田善衞の娘・堀田百合子著「ただの文士 父、堀田善衞のこと」岩波書店に触発されました。


過去、私は、堀田善衞の作品を何冊か読んでいるのです。しかし、引っ越しで処分してしまい、私の手元には『ゴヤ』、『めぐりあいし人びと』だけが残っています。

堀田善衞の作品は書店では見つからず、古本屋BOOK・OFFで、『新潮現代文学29堀田善衞「広場の孤独」「ゴヤ 黒い絵について」昭和55年(1980年)刊』を200円で購入しました。

掲載作品の中から「広場の孤独」、「方丈記私記」を選らび、読みました。


『広場の孤独』
過去に読んだことがあります。おぼろげにストーリーに記憶がありますが、ほとんど忘れていました。

堀田善衞はこの作品で1951年度芥川賞を受賞しました。

作品は、サスペンス風の雰囲気を漂わせ、終戦後の混乱と朝鮮戦争による景気の回復、ジャーナリストの生態、レッドパージ(共産党員、同調者の公職追放)、主人公木垣の生き方の模索などを扱いながら、多くの人物が交錯する複雑・深刻なな内容ですが、主人公に意外な明るさと未来への希望を感じました。分かりやすい文章で、読みやすい印象が残りました。


『方丈記私記』

この作品の最初に、堀田善衞は明言しています。引用します。


―― 私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明「方丈記」の鑑賞でも、また、解釈、でもない。それは私の、経験なのだ。


鴨長明が「方丈記」に長明が記している安元3年4月28日の京の大火と、時間と空間を越えて1945年3月10日東京大空襲の悲惨な経験を重ね合わせています。

堀田善衞は、時間と空間を越える優れたジャーナリスト的な感覚を持っています。『方丈記』を書き記した鴨長明に堀田自身の視点を投影させ、歴史や時の権力の本質は変わらないことを確認しています。それは、読者に未来に向かって現在を考える指針を与えています。


大作『ゴヤ』の執筆に際し、世界に散っているゴヤの作品をすべて見ようとした離れ業・執念と徹底さに驚きます。画家ゴヤに興味があり、絵の意味を知るには必ず読むべき一冊です。


堀田善衞は、読まれなくなってしまった過去の作家ではなく、過去から未来を空間を越えた目で見通す現代から未来の作家だと感じました。


by hitoshi-kobayashi | 2018-12-09 08:00 | Comments(0)