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長光太は、原民喜の2歳年下ですが、中学時代に民喜と同人誌を出しています。その後も交流は続き、民喜の生涯を通しての親友であり文学の良き理解者です。


佐々木基一著『昭和文学交友記(新潮選書)』から「原民喜の上京」の一部を引用します。


四六年三月末に原民喜が上京して、大森の長光太氏の家へ間借りして住むことになった。広島で原爆を受け、その後飢餓に苦しめられた人間にしては、比較的元気そうにみえたが、それは原民喜もまた戦後の高揚を身裡に感じていたからであろう。


しかし、一年後の1951年5月、突然民喜は長の妻から立ち退きを求められます。梯久美子は、『原民喜 死と愛と孤独の肖像(岩波新書)』のなかで、その間の事情を書かいています。

  
長は記録映画の仕事で長く家を留守にしていたが、実は出張先の札幌で愛人を得て一緒にくらしていた。原は、長がもう東京に帰ってくるつもりがないことを、佐々木基一から知らされる。長はその後、妻と離婚して札幌でその女性と結婚し、原がなくなるまで頻繁に手紙のやりとりをすることになるのだが、このときの原は、頼りにしていた長がいなくなって途方に暮れた。


長は、札幌に仕事の拠点を置き、詩、脚本、映画、テレビなど多方面にわたって活動します。

民喜の全集におさめられた長あての手紙から、民喜は死(1951年)の直前まで、長の文筆活動を励まし、編集を担当していた「三田文学」やその他の雑誌への投稿を勧め、さらに長の「詩集 登高」の出版を強く後押ししていたことを知りました。

長の「詩集 登高」は、1945年から1947年頃にはほぼ完成され、出版を待つ状態だったと思われます。本著では、草野心平が194835日の日付で序を、原民喜が19483月の日付で跋を記しています。しかし、出版の直前に延期されました。その事情は、戦後の出版業界の混乱と長の考えによるとしかわかりません。

長は、1977年から1978年にかけて、民喜の義弟・佐々木基一とともに「定本原民喜全集(青土社)」の編集に参加しています。長は1999年、帯広で亡くなりました。享年90歳。

長光太についてまとまった書籍を探したのですが、見つかりませんでした。

しかし、民喜が出版に尽力した60年後の2007年に「詩集 登高」は財団法人北海道文学館により発刊されていたことを知り、インターネットで購入しました。


本著の編集にあたった平原一良(財団法人北海道文学館理事)は、巻末の「編集覚え書き」で困難な編集作業であったことを述べています。引用します。


  長光太詩集『登高』の原稿(四百字詰)一括百六十七枚は、伊藤英信氏(長光太の長男)から財団法人北海道文学館に寄贈いただいた膨大な史料(図書・雑誌、直筆原稿、書簡等)に含まれていたものである。敗戦直後の日本に流通していた粗悪な紙質であったため、劣化が進み、当初は正確な判読をまっとうできるかどうか懸念したが、なんとか終えることができた。


私は本著を手にしたとき、私が嘗て長光太が亡くなった帯広に長く住み、現在、長光太が活動の拠点とした札幌に住んでいることに、ほんのわずかですが原民喜が取り持った因縁を感じました。


長光太略歴 『登高』巻末略年譜を抜粋。

1907(明治404月1日、広島県広島市研屋町82番地に生れる。

1923(大正125月、謄写版印刷の同人雑誌「少年詩人」に参加。原民喜が加わる。16歳。

1925(大正15)早稲田大学フランス文学科入学。18歳。

1929(昭和4)早稲田大学フランス文学科中退。22歳。

1931(昭和6)婦人画報社編集部入社(嘱託編集記者)。24歳。原民喜自殺未遂。

1946(昭和21)「近代文学」創刊号に詩2篇を発表。39歳。

1948(昭和237月、伊藤スエと結婚、末田姓を改め伊藤信夫となり、戸籍を札幌に移す。41歳。

1951(昭和26)3月13日、原民喜死す。12月、北海道放送(HBC)入社。44歳。

1963(昭和38)突然に心身症・多発性神経炎のため全身凍結。一切仕事を禁止される。56歳。

1976(昭和51)協議離婚。戸籍を東京に移す。映画製作、テレビドラマを手伝う。69歳。

1977(昭和52)山本健吉、佐々木基一とともに『定本原民喜全集』(青土社)の編集に携わる。70歳。

1995(平成7)心身症が快方に向かう。帯広市の伊藤英信宅に移る。88歳。

1995(平成11)帯広市内帯広厚生病院で死去。92

2007(平成23)『詩集 登高』発行。


by hitoshi-kobayashi | 2019-02-22 12:54 | Comments(0)

左川ちか全詩集 新版 森開社 2010年(平成22年)


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太陽の唄


白い肉体が

熱風に渦巻きながら

刈りとられた闇に跽(ひざまず)く

日光と快楽に倦(あぐ)んだ獣どもが

夜の代用物に向つて吠えたてる

そこにダンテの地獄はないのだから

併(しか)し古い楽器はなりやんだ

雪はギヤマンの鏡の中で

カーヴする

その翅を光のやうにひろげる

そしてヴエルは

破れた空中の音楽をかくす

声のない季節がいづこの岸で

青春と光栄に輝くのだろう


1935
年(昭和10年)8月1日発行《詩法》第13号に「太陽の娘」の題で発表

「左川ちかの詩」を引用している『左川ちか全詩集』と顎を引き真っ直ぐ前を見つめる左川ちかの写真です。
この写真の「左川ちか」は、現代でも街を闊歩しているような女性の雰囲気です。


by hitoshi-kobayashi | 2018-09-05 08:00 | Comments(0)

知里幸恵著『アイヌ神謡集』 岩波文庫 1978

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須田茂の『近現代アイヌ文学史論』寿郎社に触発されて読みました。

初めてではないのですが、読んだのがかなり前なので、記憶に残っていません。

左のページにアイヌ語の発音をローマ字で置き換えたものがのっています。右のページはその日本語訳です。

「序」は、美しく明晰な文章でアイヌ民族の悲哀と未来への不安が綴られています。名文だと思います。

19歳で知里幸恵は亡くなりました。もっと書きたかったことがあったはずなのに・・・。


知里 幸恵(ちりゆきえ、1903年(明治36年)68 - 1922年(大正11年)918日)。北海道登別市出身のアイヌ人女性。


バチュラー八重子著『若きウタリに』 岩波現代文庫 2003

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この本も、須田茂の『近現代アイヌ文学史論』寿郎社の触発によるものです。

1931年(昭和6年)に、バチェラー八重子による短歌の歌集『若きウタリに』が出版。「ウタリ」は同族と訳されています。

アイヌ語と日本語は全く違う言語ですから、アイヌ語の言葉を短歌に当てはめることはとても難しいと想像します。勿論、八重子は日本語だけの短歌も詠んでもいます。

八重子の短歌は、「若いウタリ」に向けて、アジテーション(強い呼びかけ)的内容が多いのですが、養父・養母への思慕や英国旅行の印象を詠った作品は、八重子の瑞々しい感性と心象を言葉に置き換えることのできる才能の豊かさを感じさせます。

バチュラー八重子(バチェラーやえこ、1884613 - 1962429日)

アイヌの歌人・キリスト教伝道者。


くらた・ゆかり著『きりのはな』 女人詩社出版 1934年(昭和9年)発行

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詩人・左川ちかが散文でこの詩集を褒めていました。左川ちかの感性に触れてみたく、探しました。

くらたゆかりは、富山県高岡市在住の詩人です。詩集は非売品で入手困難。高岡市図書館にコピーを依頼し、著作権が継続しているため部分的なコピーをいただきました。

作品を一篇、引用します。


ももわれ

林檎のようにはずかしい

けれどうれしいももわれ

きらきら光る街のウインドに

見えかくれする姿よ

歩みながら花櫛のようにうれしい         

綺麗に結った黒髪のあいだから

ありまちの手柄が そっとそっとのぞいている 

大人になりつつある女性の初々しさが表現されています。その他の作品も優しい言葉で綴られています。引用します。

「ほとばしりでる素直さと豊かな感情に輝いてゐるなんと清麗な詩集でございませう。


くらたゆかりの作品は、左川ちかの硬質なシューリアリズム的な作風と全く違います。これらの作品の良さを認める左川ちかの懐の深さに驚きました。


くらた・ゆかり(クラタ ユカリ)

職業・肩書:詩人

出身地:富山県高岡市

生没年 大正2年生(1913)- 平成18年没(2006

本名:長谷川・ゆかり


藤本真理子訳 「イーディズ・シットウェル詩集 惑星の蔓」書肆山田刊 2011

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イーディス シットウェル Edith Sitwell

生没年:188797 – 1964129日没

英国の詩人

左川ちかは、散文『シツトウエルの〈田園喜劇〉について』の中で、シットウェルの肖像画(写真)とその作品に触れています。

読んでみましたが、その難解さにギブアップです。左川ちかの感想に近づくことはできませんでした。
少し冷却期間を置いて再度挑戦します。

ところでシットウェル肖像画は、これだと思います。

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by hitoshi-kobayashi | 2018-08-23 08:00 | Comments(0)

「自選 大岡信詩集」 岩波文庫 2016

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詩人で評論家の大岡信(おおおか まこと)が4月5日に亡くなりました。

戦後の日本の詩の世界に大きな足跡を残した巨人です。

昨年来、病気療養中と報道されていました。とても残念です。

2016年、岩波文庫から自選大岡信詩集が発行され、買い求めました。

一度ブログで大岡の酒を詠った作品を紹介しました。

美酒、美食をこよなく愛した人だったようです。


自選詩集の巻頭の作品です。大岡信1511カ月(1947年)の詩です。

タイトル「朝の頌歌」の朝は、戦禍から立ち直ろうとする日本の心であり、大岡がこれからどう生きていくかの決意でしょう。

大岡の言葉は清冽で瑞々しく、この詩を読む者に強く響きます。



朝の頌歌(ほめうた)

大岡信


朝は 白い服を着た少女である

朝は

谷間から

泉から

大空の雲から

野末のささやかな流れから

朽ちた木橋のたもとから

その純白の姿を

風に匂はせながら静かに現れる


霧が無数の水滴となつて

静かに静かに降りそそぐ

黒い柔らかな土に

冬を蹴とばして萌え出た薄緑の若葉に

朝のしじまに籠る家々の屋根に

しづしづと降つては

新鮮な色に映える


その時 霧の中には

清らかな髪の少女(をとめ)が微笑み

やがて地上は朝の歓びに溢れる

歓びは

朝の巻毛にしたたる

すつきりとすきとほつた

清い髪の中に宿るニンフである


日が霧の彼方に

羞ぢらひつつ 紅らみながら昇って来ると

地上にはほのかな弦の音が響いて

やがて人々は

霧のひそかな手にめざめつつ

今日も生命の歓喜に満ちて

無限の歴史の連鎖の一環を作り出す

1947.1.6) 




by hitoshi-kobayashi | 2017-04-09 08:00 | Comments(0)